店主 野田 守拙(しゅせつ)の歴史

印章彫刻師「野田守拙(しゅせつ)」

印章(はんこ)彫刻の仕事は、今から70年以上前、私の父が始めたのがきっかけになります。
初代 野田清 大阪で活字印刷を営んでいた父でしたが、第二次大戦中に疎開することとなり、疎開先でも少ない道具で仕事できるものとして、印章彫刻を始めたのです。
父は器用だったため仕事も順調にこなすようになり、そのおかげで疎開先でも順調に生活することができていました。
 しかし… 私が中学生となったある日の事でした。父が風邪でも引いたのか体調をくずし、しばらく布団に入っていました。その時は父を含め、風邪だろうからすぐに回復すると思っていたのです。しかし父の体調は一向に回復することなく、むしろだんだんと酷くなっていきました。
 体は思うように動かないようになり、本人は死を覚悟するほどに… 病床の中、私の母に「先に逝くことになってしまい、すまなかった…」と伝える程でした。それを見て私は高校進学を断念し、初代の印章彫刻業を継ぐ決心をしたのです。


 私は15歳で中学を卒業した後、父の知人の紹介で大阪で有名な印章彫刻一門「フタバ工房」に入門しました。私は当時の当主のご子息である二葉 一成(ふたば いっせい)先生の一番弟子として入門。入門後は師匠の指導の下、多くの注文を彫刻してゆく毎日が始まりました。

守拙と師匠の二葉一成先生

一番右が私。中央の子どもを抱えているのが二葉一成先生

 師匠の一成先生は、集中していると彫刻スピードがとても速く、同じような仕事を私と同時に始めても、私が作業の半分もしないところですべて彫り終わるということがしょっちゅうありました。他のお弟子さんと比べても早いので、最初は愕然としたのをよく覚えています。ただ、師匠はその集中力は長続きしなかったので、私は一日単位での仕事量では負けまいと、こつこつと時間をかけて何本も彫り続けることにしました。食事やトイレを除いて26時間彫り続けたこともありました。こうしてゆくことで、時間をかけてでもしっかりしたはんこを多くのお客様にお届けすることができるという事に気づき、それが私の自信となってゆきました。一成先生から「俺は1本を彫るのは早いけどお前みたいに続かんわ。お前は本当に凄い。」とおっしゃっていただけたのは嬉しかったです。


 注文に応じて印章を彫刻してゆく。そんな日々が続いていたのですが、ある日転機が訪れました。師匠の一成先生から一枚の紙を渡されました。そこには漢字が書かれており、師匠は「この字を課題とした作品を彫れ」と言ったのです。それは彫刻したものを展示会に出品するためでした。師匠は自分だけでなく弟子の私にも全国有数の職人になってほしいという想いで、展示会の出品で門外の職人と競い合い、より優秀な作品を生み出すことを目標としてたのです。

角印彫刻 最初はは言われるままに彫っていました。しかし彫り終わると次の課題が出るどころか、次第に課題の数が増えてゆくようになったのです。師匠は出品する展示会をどんどん増やしてきました。「日々の注文をこなすだけでも大変なのに何で…」と最初の頃は思っていました。しかし、普通の仕事は客にお渡しした後、特に何も評価されなかったのに対して、展示会作品は出品すると結果が発表されて、他の職人の作品と優劣がつきました。そのため「この作品のどこが自分のより優れているのか」というのがすごく気になるようになりました。こうして他の職人の作品と比べ、より良い作品ができるようにと彫り続けたのは、間違いなく今の私の職人としての礎になったと思っています。

昭和40年 「日展」入選作「千轉萬變」(7.2cm×7cm) そうこうしているうちに様々な展示会で賞をいただけるようになりました。その中でも大きな受賞となったのは二つ。一つは日本最大の美術展「日展」の篆刻(てんこく:石のはんこ)部門で入選をいただいたこと。

一等印刻師 賞状 そしてもう一つが「一等印刻師」という称号をもらったことでした。「一等印刻師」はとても貴重なもので、本当に所有者は少ないうえに今は取得できず、所有されてたけど亡くなられた方も多いのです。存命の所有者では全国でも数少ないこの「一等印刻師」は、師匠からいただいた試練のおかげで得ることができたんだと感謝しています。


 フタバ工房で9年間修業をし、様々な技術を学びました。ある日私は師匠の一成先生に呼ばれると、「もうお前も一人前やし、独立やな。雅号(がごう)をやるわ」と言っていただきました。

「守拙(しゅせつ)」の落款印

「守拙(しゅせつ)」の落款印。書道の作品に用います。

 雅号とは作家が活動する際に名乗る名前で、一人前の証として師匠が弟子に与えるものです。ここで私は一成先生に「守拙(しゅせつ)」という雅号をいただきました。私が名実ともに一人前の職人として認められた瞬間でもありました。
 この「一人前の職人」となる事は、もう一つの喜びがありました。修業前、病に倒れ命を失うほどの危機だった父が、ありがたいことに奇跡的に回復したのです。独立によって私一人ではなく父とともに仕事ができる事。そして、私が一人前の職人になったことを父母揃って喜んでもらえたことがとても嬉しかったのを、今でも覚えています。

野田印房 こうして私は独立し、父とともに大阪府摂津市で「野田印房(のだいんぼう)」という店舗を設立。その後は紹介で仕事もいただき、結婚して子供も生まれ、店名も「摂津印章(せっついんしょう)」に変更し、比較的順調に過ごすことができました。


初期の印章彫刻機 独立して仕事をこなしていたある時、業界にある出来事が起きました。「印章彫刻機」の登場です。この彫刻機の存在が、今後の印章業界を思いもよらない形で一変させました。
印章彫刻機は最初は手を出す職人は少なかったものの、職人の腕と機械の使い方次第で立派な印章がよりたくさんできると広まり、年を重ねるごとに多くの職人が使うようになりました。
その後、新しい彫刻機が生まれ、職人はそれを使い「より良いものを」とそれぞれ創意工夫し始めました。しかし実はその新型の彫刻機は、今まで以上に「綺麗に彫れる」だけでなく、「『あらかじめはんこの文字が入ってる』ので文字を知らなくてもOK」だったのです これにより、素人が手間ひまかけることなく、印章が彫れるようになってしまいました(機械に入ってる文字は職人からすればひどい文字ばかりなのでが…)。つまり、印章が「一流の職人が彫って初めて仕上がるもの」から「素人でも大量生産のようにできるもの」になってしまったのです。 職人の私からすればひどい出来の実印や銀行印が多く出回り、それが何の疑問も持たず使用される世の中になり、職人といて「自分の何が評価されているのか…」と悩む日々が続きました。


 この悩みから解放されるきっかけは意外なところにありました。
  独立前後から私は、師匠の一成先生の紹介で書道の師匠「瀬戸 邑波(せと ゆうは)」先生と出会い、書道の道も歩み始めました。独立後も書道を続け、ある程度筆が使えるようになり、先生にも「そろそろ展示会に出品してみたらどう?」と言われた頃の事です。偶然店舗にて実印の注文を受け、その方に実印を渡したら「このはんこ、凄いですね! ありがとうございます!」と喜ばれたのです。

 聞けばさほど印章に詳しいわけではなさそうでしたが、私の作品を喜んでいただく事ができました。最初は意外だと思ったのですが、その後「本当に突き詰めた『一流の作品』は、一般の人にも理解される」ということが解りました。私は、もっと腕を磨いて良いものを生み出してゆこうと思うようになりました。これまでの修行で彫刻については自信がありましたが、さらに腕を極めるためには何が必要なのか… 考えた結果、作品の根源となる「文字を生み出す力」、それはすなわち「文字を書く」ことであり、ちょうど当時やっていた『書道』そのものだったのです。

 それからはより一層、書道の作品作りに励むようになりました。展示会に出品して賞ももらえるようになる一方で、印章ではお客様から「すごい実印をありがとうございます」と言われる事も増えるようになりました。


 その後、大学を卒業して就職していた私の長男が一緒に仕事をしたいと言ってくれ、インターネットの通販サイトを立ち上げてくれました。お客様から喜びの言葉が増えていく中、一通のお客様のメールが目に留まりました。

 その方はお子様か何かに印章をプレゼントされたようで、「プレゼントした子はもちろん、その場にいた皆がうらやましがってました。」「一生ものの印鑑を贈って喜んでもらえて本当に良かったです」とメールしていただきました。それを見て「今どきの若者は印章に興味ないと思ってたけど、それでも喜んでもらえるのか」「贈るほうも受け取るほうも嬉しいならそれに越したことはないな」と感じたのです。
こうして、お子様たちに一生を通じて胸を張って使い続けることができる『証』を贈り届けるサイトを作成し、今に至っています。


野田守拙

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございます。
これまで印章を50年、計算すると少なくとも10万本以上彫刻してきました。その一本一本がお届けするお客様にとって恥じない、立派な『証』であると思っています。
そんな自分の『証』となるものを、貴方の大切なお子様やお孫様にお届けすることで、世代を通じで喜び合い、本物を大切にし続ける。そんな印章のお届けに一つでも力になれたら…
そんな思いで、今も毎日印章を彫刻し続けています。

ぜひ一度、私の店舗にご来店いただき、大切な方への心のこもった贈り物をお届けください。
大切な方への心のこもった贈り物をみるにはこちら